阿呆窯 
西川真衣 作陶展
〜和束にて〜

2023年9月9日(土)
~10月1日(日)

11:00~18:00 
※水・木・金曜日、25・26日はお休み

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京都府相楽郡和束町にて独立し、

初めての個展です。

想い描いていた環境の中で、

自然の音と己の心にじっくり耳を澄まして

制作しました。

同じものはひとつとしてありません。


もし、お気に入りと出会って

頂くことが出来たなら、

作り手としてこの上ない幸せです。



阿呆窯   西川 真衣



陶歴
1996年  大阪府堺市出身
2018年  京都府立陶工高等技術専門校修了
〜2021年 読谷山焼北窯 宮城正享氏に師事
2023年〜 京都府相楽郡和束町にて作陶


10月1日 無事会期終了いたしました

。


阿呆窯 西川真衣 作陶展
〜和束にて〜

 たくさんの方にお越しいただきありがとうございました。



西川真衣さんの初個展
、これからの彼女の活動が楽しみ!とおっしゃっていただける方が多くて、ご紹介させてもらった私たちもとっても嬉しい気持ちになりました。

会期中、阿呆窯のファンであり、お店でも器を使われている88ビスケットさんの焼き菓子も販売させていただける機会もいただきありがとうございました。



阿呆窯のInstagramアカウントはこちらになります→ @_odoruahou どうぞフォローしていただき、今後の彼女の活動を見守り応援していただけたらと思います。

会期終わりには、季節はすっかり秋。
彼女を見送ったあと、なんだか温かいものか恋しくなりました。




西川真衣さんありがとうございました。

お越しいただいたみなさま、snsで気にかけていただいたみなさま
ほんとうにありがとうございました。



 


 


10月1日の最終日、西川真衣さん在廊予定です。


 



 


 


京都の南端、滋賀と奈良と三重の境目あたり、南山城と宇治田原に挟まれるように和束町はあります。


日本昔話に出てくるような、こんもりとした山に囲まれた集落に、西川真衣さんの自宅と工房『阿呆窯』はあります。暑かった今年の夏、日中でも30度にいかないくらい涼しくて風が通り抜ける場所。隣には茶畑が広がっています。

4年間過ごした沖縄県読谷を後にし、信楽で1年過ごし、そしてこの地に数ヶ月前、自分の窯を持って独立された真衣さん。

和束に移って初めての、真衣さん自身にとって初個展をフェルトで開催していただくことになりました。


 

和束の風をいっぱいに吸い込んで、この夏に生まれて来た陶器たちがいよいよ池田にやって来ます。

 

阿呆窯 西川真衣 作陶展

〜和束にて〜

 

 

畑天満宮 秋祭り

令和5年
【宵宮10月21日(土曜日)】 太鼓・樽神輿運行

【本宮10月22日(日曜日)】 昼の部/太鼓・樽神輿運行
                夜の部/太鼓(神輿)宮入り19時ごろ〜

Fältの真上にある畑天満宮は、永長二年(1097年)11月11日創建。天正年間の兵火に罹って焼し、文禄4年(1595年)に村民によって再建、ついで元禄、宝暦に改造、明治4年にも造営されました。現在の社殿は平成七年の阪神大震災で本殿が倒壊し、平成12年氏子崇敬者の協力で再建されました。

畑天満宮秋祭りは江戸時代初期の秦下(はたのしも)郷の頃から伝わる「五穀豊穣」「無病息災」「家内安全」を願うお祭りです。一時期途絶えていましたが、昭和47年(1972年)豊作を願う祭りとして復活しました。
神輿の上では化粧をした4〜6人の子どもの乗り子が太鼓たたき、本宮の夜の太鼓(神輿)宮入りでは、その神輿を60人ほどの男たちが担いで上渋谷、西畑、東畑それぞれの地域から畑天満宮へ向かって坂を登っていきます。天満宮の49段の急な石段を神輿を担いで登り切る宮入りシーンは勇壮果敢であり、天満宮の境内から見渡せる阪神間の夜景をバックに響く太鼓の音と、「よいさじゃ」のかけ声、何百年も受け継がれる神輿の光景は大変美しく情緒があります。地域の方々の努力で伝え続けられている文化価値のある秋祭りです。池田に長年住まわれている方でも知らない方が多い伝統のお祭り、お時間ありましたら是非間近で見てみてださい。

本宮の夜はFältもopenしていますので、是非お立ち寄りください。尚、Fältの前の参道はお車の通行禁止になっていますのでお越しの際はバスをご利用ください。
お酒やおつまみ少しご用意しておりますが、お飲み物や食べ物などのお持ち込み大歓迎しております。

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現在の池田地域は、10世紀前半に作られた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』によると、摂津国豊嶋郡に属しています。豊嶋郡には、秦上(はたのかみ)・秦下(はたのしも)・豊嶋(てしま)・駅家(うまや)・余部(あまるべ)・桑津(くわつ)・大明(おおあけ)の7つの郷(里)がありました。池田市域はそのうちの秦上・秦下・豊嶋の三郷に含まれていました。これら三郷は推測ですが、秦上郷は箕面市止々呂美(とどろみ)を含む細河地区、秦下郷は池田・秦野地区、豊嶋郷は豊中市麻田地域を含む池田市南部地区であったといわれています。池田は大宝律令(たいほうりつりょう、701年(大宝1年)に制定された日本の律令)の成立を受けて、猪名県から摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷・豊嶋郷と呼ばれるようになりました。

秦上郷と秦下郷は渡来系氏族である秦(はた)氏が居住した土地であったことから生まれた地名であると考えられています。秦氏は、古墳時代に朝鮮半島から渡来した氏族です。秦の始皇帝の末裔と称し、後漢の霊帝の子孫とする漢(あや)氏と渡来系氏族の勢力を二分した有力氏族です。秦氏の渡来については、『日本書紀』応神天皇14年の条記載にみられる、弓月君(ゆつきのきみ)が120県の民を率いてやってきたことがその始まりであると伝えられています。秦氏は、山城国葛野(かどの)郡・紀伊郡・愛宕(あたご)郡(京都市)に勢力を持ち、その一族は全国各地に分布しています。また秦氏は殖産系氏族といわれ、土地開発や建設、養蚕や機織り(はたおり)といったエンジニアとして活躍したといわれています。

秦氏がいつごろ池田にやってきたかについては記録が残されていませんが、6世紀末ないし7世紀初頭に築造されたと考えられている巨大横穴式石室の鉢塚古墳(池田市鉢塚2丁目の五社神社境内に所在する古墳)の構造が、秦氏の本拠地である太秦(京都市右京区)に所在する蛇塚古墳と類似することから、この頃から池田市域に大きな勢力を持ち池田を中心とした猪名川流域の開発に関わっていたことが推測されます。

(引用:「池田学講座」池田市 池田市教育委員会発行)

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畑という地名は池田地域での秦(はた)氏の繁栄に由来しているといわれています。

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2015年秋祭りより


 


 

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